月別アーカイブ: 2014年1月

定量化の毒

阪神大震災から19年目の昨日、少し考えることがありました.

 

それは東日本大震災の経験.

経験と言っても、地震当日僕は東京で働いていて

震度5の揺れの後、帰宅難民となり歩いて自宅に帰ったこと.

その後原発事故の影響に憂慮しながら暮らし、少しばかりのボランティアを被災地で行なったこと.

それぐらいのもので、

多くの命が失われたという大きな出来事を具体的に感じたのは、実体験よりも

死者行方不明者千人、五千人、一万人・・と増えていく数字や

報道の情報から引き出された僕自身の想像だったように思う.

 

「テレビの画面にも、新聞や雑誌の写真にも、具体的な死者の写真は一つも写っていません。」

「わたしたちは、隠蔽された死、あるいはきれいに消毒された上澄みの死だけしか見ていないのですよ。」

「わたしたちはテレビの画面で何度も何度もいやというほど荒々しく牙をむく津波の映像を見せられながら、

じつは一人ひとりの死の重さとは向き合っていませんでした。奇妙なことに、死者や行方不明者の数が増えるほどに、

私の感性は逆に麻痺して、死のリアルから遠ざかっていったように思います。」

(『心』 姜尚中著)

 

ものごとを数値化・定量化して語ることはある客観性をもつので他者に伝わりやすい

というのが一般的な考え方だろうと思うけれど、その数値が示すのはほんのわずかな一側面でしかないということを、

僕たちはあまりに忘れすぎているんじゃないだろうか.

数値は人にかりそめの安心感や納得感を与えるかもしれないが、それがものごとの全てではないのだから、

僕たちは数値にあらわれない多くの感覚や状況を放棄してしまっていることになる.

 

ふりかえれば、僕がある住宅メーカーの設計職を辞したのは

空間という複雑で多様な要素をもつものが、一義的な数値や決まりで紋切型に置き換えられていくことの違和感からだったように思う.

 

すぐに決めずに感覚を自由にしておくことでしか得られないものは 大切なものであることがある.

 

 

 

模型3題

模型を制作してのプレゼンが続いています.

模型は図面化した計画案をクライアントに3次元で理解していただくための

有効なツールで、一つのプロジェクトで何個も制作することもあります.

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模型は、つくる人によって その精度や丁寧さはもちろんのこと、建物周辺に漂う空気感や

素材の印象がそれぞれに違っていて

まさに小さな建築をつくるようだと思うことがあります.

 

模型制作はまだしばらく続きます…

 

何もできない時間をつくる

先日TV番組で寝台列車の特集が放送されていて、

大阪―札幌間を22時間かけて走る「トワイライトエクスプレス」や

九州を縦断する「ななつ星」が紹介されており、

いつかこれに乗りたいなあと思いを馳せていました.

 

これらの電車の旅を見て思うのが、日常生活の感覚を切り離すということがいかに贅沢な行為になってしまったかということだ.

この寝台車の運賃は百万円近くする部屋もあるぐらい高価で、一流ホテルのような設備やサービスが提供されている.

食事はフランス料理のコースが楽しめたりするらしい.

だけど、じゃあそこで何をするのかというと

乗客同士で話をしたり、早起きして朝日を眺めたり、車窓のチューリップ畑を愛でたり

そういうことをするということだ.

 

貧乏性の僕は、「こんなこと家でもできるじゃないか」と思ってしまうけれど、

その反面気持ちが分かる部分も確かにある.

 

金銭レベルが全然違う話だけど、最近遠方の出張に高速バスを使うことがあります.

いつでも誰にでも連絡がとれたり どこでもインターネットに接続できる、暇つぶしには事欠かない時代にあって

バスの中で、ある不自由さをともなった時間が 僕にとってはとてもだいじな「ものを考える場所」になっている.

車内での読書は、家でのそれと比べてすさまじい集中力を発揮します.

仕事のことや家族のことを考えたり、久しく会っていない人のことを考えたり、どうでもいいことを考えたりする時間が実はなかなか日常で持てないことを

こういうときに深く感じます.

 

睡眠中に脳内で情報が整理されるように、強制的に何もできない時間をつくることが

思考を自然な流れに修正していくように思います.

 

 

 

10人いれば10人ともが違った考え方をして 違った感じ方で違った生き方をしている.

それぞれが違う脳で思考し、想像し 違う身体で活動し 違う感受性でものを受け止めていく.

当たり前だけれど、このことは面白くもあるし むずかしさを感じることでもある.

 

例えば、面白い発想をするクリエイターの話を聞く.

なるほどなあと思うけれど、自分が家を設計するときに置き換えてみると

そんな発想はできない自分を認識させられる.

それは方法論を真似るとか習慣を変えるというような すぐに自分に取り込めるものではなくて、

その人が生きてきた過程で培ってきた「癖」が積み重なった結果として生まれていて

同じことをやろうとしても たぶん面白くはならないだろうと気付く.

 

自分のことで考えてみても、今住宅を設計する際のプロセスは

修業時代にコンペ案を考えたときや 学生時代に設計課題をつくったときと本質的には変わってないし、

例えば、成果物を一旦寝かせてその後何度もチェックするようなやり方は

もっとさかのぼった受験生の時に単語を暗記した時とも同じイメージでやっていると思う.

自分の特性を受け入れて、より高いパフォーマンスをするにはどうしたらいいかと考えると

自然に自分のやり方が定まってくる.

 

けれど、それだけだと 自分が大きく動かられることもまた ないんだろう.

 

 

 

 

阪堺電気軌道阪堺線

大阪出張の折に、はじめて阪堺線に乗りました.

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阪堺線は、字の通り大阪と堺を結ぶ路面電車で、関西地方でも特に下町情緒が残る街並みを通る 趣ある鉄道です.

資金難による廃線協議を10年以上前に申し入れているようだが、

沿線自治体である堺市を中心に補助金や支援団体の立ち上げによる路線存続の動きがあり、

利用者が減少し続ける今も運行を続けている.

 

ワンマンの小さな車両が自動車と並んで道路をゆっくり走る姿は、「スピード」というものが偏重されがちな現代にあって

何か自分の日常とは異なる息づかいを感じさせてくれる.

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電車のホームはこれ以上ない位のシンプルさです.

 

この街に日本一の高さを誇るビルが建設されたことも、

この鉄道が残されている意味を問う ひとつの材料だという気がします.

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TVの位置付を考える

2014年が始まりました.

年末年始と言えば、幼いころ父に連れられて越冬炊き出しのボランティアに行っていたのを思い出す.

それぞれがさまざまな想いで年を越したんだろうと考えると、少し身の引き締まる思いがします.

 

年末年始はいつもよりもTVを見る機会が多いので、よく考えるのが

「TVと自分の生活との位置をどう取るか」ということだ.

年末年始のTV番組をみていると、見るという行為やその時間が空間が どれほど自分の心に残るか、充実するかと自問する.

TV以外にもっと豊かな別の行為・時間・空間はたくさんある.

無駄だとは思わないけれど、TVを見ることで得るものもそこまで多くないと感じる.

こう言うと「情報入手の手段だ」という声が挙がるだろけれど、その方法はTV以外でも問題ないだろう.

 

なぜこんなことを考えるかというと、住宅を設計するときに あまりにもTVの位置を中心に間取りが検討されがちであるからだ.

大画面のTVをTV台に据えて、その前にソファセットが向かい合う.

ダイニングが同じ空間にある場合はダイニングテーブル ひいてはキッチンからもTVが見られる配置にする.

そうするとおのずと間取りは決まってくる.

TV中心の間取りにすると、TV中心の生活がなされる.

TV中心の生活になると、TV中心の人生になるし、極端な言い方かもしれないけれどTVに影響を受けた人格が住む人に定着する.

 

「リビングダイニングにTVがあるのは、それに頼らないとコミュニケーションが成り立たない教養の無さを晒しているようなものだ」と言う人が居た.

これは偏った意見かもしれないが、TVは番組を決めて目的意識を持って見ること、場所を限定することが 僕は必要だと思う.