定量化の毒

阪神大震災から19年目の昨日、少し考えることがありました.

 

それは東日本大震災の経験.

経験と言っても、地震当日僕は東京で働いていて

震度5の揺れの後、帰宅難民となり歩いて自宅に帰ったこと.

その後原発事故の影響に憂慮しながら暮らし、少しばかりのボランティアを被災地で行なったこと.

それぐらいのもので、

多くの命が失われたという大きな出来事を具体的に感じたのは、実体験よりも

死者行方不明者千人、五千人、一万人・・と増えていく数字や

報道の情報から引き出された僕自身の想像だったように思う.

 

「テレビの画面にも、新聞や雑誌の写真にも、具体的な死者の写真は一つも写っていません。」

「わたしたちは、隠蔽された死、あるいはきれいに消毒された上澄みの死だけしか見ていないのですよ。」

「わたしたちはテレビの画面で何度も何度もいやというほど荒々しく牙をむく津波の映像を見せられながら、

じつは一人ひとりの死の重さとは向き合っていませんでした。奇妙なことに、死者や行方不明者の数が増えるほどに、

私の感性は逆に麻痺して、死のリアルから遠ざかっていったように思います。」

(『心』 姜尚中著)

 

ものごとを数値化・定量化して語ることはある客観性をもつので他者に伝わりやすい

というのが一般的な考え方だろうと思うけれど、その数値が示すのはほんのわずかな一側面でしかないということを、

僕たちはあまりに忘れすぎているんじゃないだろうか.

数値は人にかりそめの安心感や納得感を与えるかもしれないが、それがものごとの全てではないのだから、

僕たちは数値にあらわれない多くの感覚や状況を放棄してしまっていることになる.

 

ふりかえれば、僕がある住宅メーカーの設計職を辞したのは

空間という複雑で多様な要素をもつものが、一義的な数値や決まりで紋切型に置き換えられていくことの違和感からだったように思う.

 

すぐに決めずに感覚を自由にしておくことでしか得られないものは 大切なものであることがある.