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4.14 4.16を受けて

今回の地震について

考えたことを何度かブログに綴ってみたけれど、うまくまとまらない.
大きな災害に対して投げかける適切な言葉や文章が分からずにいた.

TVもネットも地震に関するおびただしい数の発言で溢れていて、それらは稚拙なものから周到なものまで様々だけれど、各々の立場や想いに絡んで複雑な感情を生むため扱いが難しい.
問題になった発言が多々あったし、あまり何かを主張すべきでないと思っていた.

同じ思いによるのか分からないけれど、
建築家のブログの中で今回の地震について正面から述べているものが
見た限りとても少ない印象を持った.
日常を綴る媒体の中で、何も無かったかのように時が流れている.

だけど、これだけの建物の損壊を見て 建物をつくる人間が何も思わないはずはないし、
思うことを述べる責任もあると思うようになってきた.

僕は建築設計者、特に住宅のつくり手として
「命を守る建物をつくる」ということに最善を尽くすべきだと思う.

ただ災害が想定外のものであった場合に、たとえ人類の叡智が集積された建物であっても
脆さを大いにはらんでいるということも事実である.
人命は守っても建物のダメージは防げないかもしれない.

リスク管理をどのレベルで設定するかによるけれど万全は無い.
人間はどこかで災害を受け入れなければならないという思いがある.

耐震基準を厳しくしたり、何百年に一度あるかないかの災害のために投資をすることに過剰になるよりも、
捨てるものと捨てないものをきちんと分けて、守ると決めたものを徹底的に守りきる姿勢が 明日への望みをつなぐかもしれない.

建築に対してそういう希望の持ち方をしたいし、 持てるような建築をつくらなければならない.

部分と全体

屋根の板金の納まりを打ち合わせしました.

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建築はこのような小さな納まりが無数に積み重なって全体を成すものだから

ひとつひとつ丁寧に考えたいと思う.

だけどその一方で、全体のバランスを損なわないようにするためには

部分をあまりに考えすぎて複雑なものにしても具合が悪い.

 

人間の空間認識においては全体と部分をがほとんど同時に感受される.

あるいは全体と部分がめまぐるしく変わりながら感受されると言える.

設計では突っ込んで考える必要があるため、部分と全体を同時に検討することは難しく、

部分を考えて全体から眺めてみる、全体を俯瞰してから部分に違和感が無いか確認するというように

部分と全体の間を行ったり来たりする.

 

何度も往来しているとそこに道が出来るように、部分と全体の検討を繰り返すほど

建物の雰囲気が思考になじんでくる.

自然と付き合う

配筋検査を行ないました.

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前日の積雪で作業が遅れるのを心配していましたが、

工事関係者皆さんに頑張っていただき ほぼ工程通りすすんでいます.

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工場のラインで製造される製品と現場で建ち上がる住宅が大きく違うのは、現場の自然環境と付き合ってつくっていかなければならないことです.

天候によっては工事が難しい場合があります. また気温や湿度によって扱う材料は調整が必要です。

この時期は極寒の中、真夏には酷暑の中、職人さんは気持ちを込めて仕事に向かいます.

まだ日が沈むのが早いので、作業が効率良くというわけにいかないこともあります.

 

そんな自然とうまく付き合っていきながら、無理のない仕事を積み重ねていけると

工場製品とは違った 人の手の味わいが感じられる精度をもった空間と出会うことができます.

 

家への慕情

一宮ですすめている計画の解体工事が終了しました.

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30年間暮らし、ご家族の歴史や思い出が詰まった家を取り壊し、

現在のライフスタイルに合う新しい住まいをつくることを

クライアントは決断され、今回の計画に至りました.

 

とはいえ、解体後の更地を目の当たりにすると、設計者である私ですら

一抹の寂しさと新たな住まいへ向かう気持ちが入り混じった複雑な感情になります.

 

柔らかい光に包まれた 穏やかな暮らしが実現されるように

検討を重ねながら現場をすすめていきます.

責任とは何か

新国立競技場建設をめぐる様々な問題が起こってからずいぶん時間が経過した.

これについては建築に携わる人間として僕自身も思うことがあるし、
またいろんな議論や意見を聞いたり読んだりして自分なりの見識を持とうとしてきた.

だが、僕がこの問題に関わることで気になったのは
その問題自体よりも、その問題に対する社会の反応だった.

 

数ヶ月前、競技場の建設コストが高騰した問題で、それまで沈黙を守っていた安藤忠雄が会見を開いた.

これに対する建築関係者たちの反応は、僕の知る限りおおむね好意的だった.
「よく一人で立ち向かった」「誠意をもって説明しようとしている」と.

ところが僕の周囲の建築に関わらない人たちは、一様にこの会見に批判的だった.
「無責任だ」と.

この反応の違いは、安藤忠雄の人となりやその活動に対する認知度、そしてコンペという仕組みに対する理解度による差だと思われるが、
そもそもこの場合の「(無)責任」とは何を指しているのだろうか.

 

通常誰かの責任を追及する際には、その人にどんな仕事が課せられているのか、
その仕事の責任がどこにどの範疇であるのかの正確な理解がなければならない.

ここで言うと、国際コンペの審査委員長という仕事がどのような内容で依頼されて、安藤さんと委託者の間でどのように取り決められているかを知らなければ、責任が安藤さんにどの程度あるのかというのを断定することはできない.

ただ、「責任」というのは契約や法律と言ったルールに基づくと同時に道義的な意味合いも含んでいるから、
取り決め通りだったとしても配慮が欠けていたという批判は可能であるだろう.
ルールを守れば何をしてもいい訳ではない.

だけど、最近の社会における責任追及の様子を見ていると、度が過ぎていると感じることが多いのも事実だ.

閣僚の不祥事で任命責任について問われる首相のニュースなどを見るにつけて、
焦点が本質から外れて 感情がずれながら収束していくような感じがする.
人間なら誰しも悪者をつくって溜飲を下げる傾向が多少はあるけれど、
ものごとをより良くするためには 責任追及によって思考を停止させず、教訓とする方法を探すべきである.

駆け出し

設計に携わる諸先輩方の仕事のうち、

駆け出しの頃、独立して間もない頃の設計を中心に見るようにしています。

 

今の自分に近い境遇で、何を考え設計されているのかということがよく見て取れるということと、

この時期の仕事は作家性に依っておらず、住み手の生活や環境に向き合い、それらを明らかにしていく中で生み出されているという感覚がより強いからです。

 

最近、設計は「どう見せるか」ではなくて、「どう込めるか」という態度の集積ではないかと思います。

見えてくるものは結果的であっていいと思っています。

圧巻

寄り道して名古屋大学の豊田講堂へ.

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幼い頃から慣れ親しんだ街にある著名建築ですが、

きちんと見学したのは初めてです.

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代官山ヒルサイドテラスや京都国立近代美術館、近作ではニューヨークのワールドトレードセンター跡地に建てられた新しい高層ビルを設計した槇文彦が 弱冠32歳のときに手がけた建築です.

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階段のディティール.

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庇と壁の取り合い.

コンクリートの塊が軽やかに浮いて見えます.

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仕上げの表情.

同じ素材を異なる仕上がりで構成することで、複雑な形状が整理されています.

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開口のリズム.

下の2つはバランスで穿たれたフェイク.

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閉じ方、開き方.

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32歳でここまでのことができることのすごさが、ようやく分かるようになってきました.

個人的にはインドのチャンディガールで見たコルビジェの建築郡が

直線的・構成的な形状と細やかな納まりで品格を得たという印象を受けました. 圧巻.

 

 

内部の見学を問い合わせたところ、「個人での見学は不可」とのこと.

昔と比べると 見学が出来なかったり、見学するには複雑な手続きが必要な建物が最近増えた気がする. そういう時代なのか.

建築を学ぶ者には出会いが限られる事態です.

何が常識か

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長久手の現場は足場が外れてアプローチやお庭などの外構工事に入っています.

 

設計事務所として建築行為に関わっていくときに難しいのが、

手掛ける計画によって モノをつくる施工者が異なっていて

現場をすすめる上でのコミュニケーションをその都度変えていく必要があるということです.

 

同じ工務店と何度も仕事をすることもあるけれど、

それでも職人さんが変わったりするので

基本的に一回限りのチームを組んで毎回現場に臨むことになります.

 

ましてやビルディングタイプも敷地も間取りも仕上げもコストも

全てが毎回違う計画を ある完成度まで毎回もっていくことが求められます.

 

施工者によって施工の得手不得手はあるし、図面の読み方やコミュニケーションの癖もさまざまで、そのことはすなわち完成度に大きく影響します.

 

自分の常識を疑い、他者の常識を読み取ることが大切になります.

「正しさ」の受け取り方

名古屋の西区で住宅見学のお誘いがあり、参加させていただきました.

 

建築学科の先生や建築家などの専門家ばかりの見学会だったため、

設計に関する「侃侃諤諤」の建築批評が飛び交い 刺激的な時間になりました.

 

感じたのは、

ものの批評(建築のように社会的な存在は特に)には無数の切り口があるということ.

その切り口の全てが「正しさ」を持っているけれど、そこにある「共有観」がなければ、

受け手に「正しさ」として認識されにくいということ.

 

「絵心、歌心と同じように建築心というものがあると思う」

というのは建築家中村好文さんの言葉ですが、

「建築心」が共有できていると、建築関係者からの批評だけではなくて クライアントとのコミュニケーションなんかにおいても

「正しさ」が実感されやすい状況が生まれる.

 

「○○心」って、うまく説明できないものだけれど、その人の姿勢を決めるものかもしれない.

 

 

 

sectionning

愛知県の長久手市で進行している計画の現場を確認しました.

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今回の計画は半階ずつずれながら空間が積み上がるスキップフロアという形式を採用しています.

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前面道路と敷地の高低差が3m以上あるため、床のレベルを少しずつ上げて居場所をつくり

階段を上る負担を軽減しながら敷地のレベルに到達できるような計画です.

 

一般的に建築業界では 部屋の間取りを表現するために

建物を水平方向にカットして真上から見た「平面図」と呼ばれる図面が最重要視されます.

設計者もこの平面図から計画を始める「planning」という手法を多く用いますが、

今回の計画は建物を垂直方向にカットして真横から見た「断面図」と呼ばれる図面から

計画を始める「sectionning」という方法で空間取りを決定しています.

 

人間の空間認識は高さ関係に敏感なところがあります.

空間のボリュームを認識する上で、平面的な広がりと同じ位、あるいはそれ以上に

天井の高さや壁に対する窓の位置などの断面的な広がりが大きく影響します.

 

この感覚が的確に呼応できるような構成とするために、

「sectionning」という切り口は可能性があると思っています.